かの大納言にまで

かの大納言にまで進んだ有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷仲間だと思っておりました。安倍貞任・清原武則・藤原清衡のよう な英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇士・歌人なども、家柄を尋ねたならすなわちみな蝦夷の一族でありました。このほかにも蝦夷出身の鎌倉武士は多 かったことでありましょう。

かの大納言にまで進んだ有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷仲間だと思っておりました。安倍貞任・清原武則・藤原清衡のよう な英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇士・歌人なども、家柄を尋ねたならすなわちみな蝦夷の一族でありました。このほかにも蝦夷出身の鎌倉武士は多 かったことでありましょう。こういう連中が源頼朝の御家人になり、その主君と仰ぐ頼朝の立身とともに出世して、もと制度上からは賤民の筈の家人や、賤しい 給仕階級の侍が、運がよいと大名にもなる。そうでなくても御家人・侍は四民の上に立って、「おおみたから」たる農民を卑賤のもののように見下してしまう様 になりました。しかしもともと武士には蝦夷すなわちエビス出身が多かったから、「徒然草」などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを 「夷」と云っております。鎌倉武士の事を「東夷」と云っております。北条泰時が貞永式目という法律を作りました時に、「かように沙汰候を、京辺には定めて 物も知らぬ夷どもの書き集めたる文とて、笑はるゝ方も候はんずらん、憚り覚え候。」と言っております。北条泰時は勿論アイヌではありませぬ。しかし武士仲 間に這入ったから、自ら謙遜して夷と云っているのであります。日本カイロプラクティックドクター専門学院

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