これらはいずれも


 これらはいずれも産所の文字から起った説であるが、また別に算所の「算」の字に基づいた説も早く試みられている。沼田頼輔君が寄せられた『土佐算所大夫 文書』の中に、 山崎ニ算所有之、算所ハ納所之事にて、勘定致候所也。  と説明を加えたところがあり、また同文書中に藩主より諸給人中宛ての免に関する文書二通を収めて、 右申伝に、算所ハ勘定致候故、忠義公之御書も算所方に止り候也。  など書いてあるのである。近くは『郷土研究』(二巻八号)に、大橋金造氏は「江州産所村記」を寄せて、その産所の民が竈祓・祈祷・家相・方角などを活計 としている由を叙述せられ、さて、 此状を認めつゝふと心に浮び候は産所の名義に有之候。産所は恐くは算所に可有之、類聚三代格に神崎郡に算博士の職田を置かれし事見え候。若や此地方の産所 部落と関係あるには無之や(云云)  といっていられる。算博士の職田と算所との関係は、算所が広く各地に散在していることを併せ考えるだけでも到底首肯しがたいが、サンジョのサンを算博士 のサンに解する点においては、上記の如く柳田君もすでに賛意を表されているのである。  しかしながら産所または算所の文字が、いずれも徳川時代のものにのみみえて、古いところでは常にそれが散所であり、またそれがすでに平安朝頃からして、 雑色あるいは随身などとして現われ、警固や人夫に使役せられて、毫も産小屋または算道との関係を見出だしえぬことから考えると、産所または算所はまったく 音通による仮字であって、すこしも産または算の意味はないものだと解せねばならぬ。したがって余輩が試みに「特殊部落研究号」において提出しておいた一説 は、当然これを撤回せねばならぬところであった。錦糸町でヘアスタイル作りも強化中

Komentarai

Rašyti komentarą