また翌九年三月弟子檀那御中に宛てたいわゆる「佐渡御書」にも、
根本は餌取と云ふべきか。餌と云ふは宍・鷹の餌を云ふな
るべし。其れを取る物を云ふなり。ヱトリを早く云ひて、云ひゆがめてヱタと云へり。ヱトリを略せるなり。仔細知らぬ者はラウソウ(濫僧)ともいふ。乞食等
の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行引かるゝをば濫僧供といふ。それを非人・カタヒ・ヱタなど、人まじろひもせぬ同じ様の者
なれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたるなり。
また翌九年三月弟子檀那御中に宛てたいわゆる「佐渡御書」にも、
根本は餌取と云ふべきか。餌と云ふは宍・鷹の餌を云ふなるべし。其れを取る物を云ふなり。ヱトリを早く云ひて、云ひゆがめてヱタと云へり。ヱトリを略せる
なり。仔細知らぬ者はラウソウ(濫僧)ともいふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行引かるゝをば濫僧供といふ。それ
を非人・カタヒ・ヱタなど、人まじろひもせぬ同じ様の者なれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたるなり。ランソウと云ふべきをラウソウといふ。いよ
/\しどけなし。天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。生物を殺して売るヱタ体の悪人なり。
と解しておるが如きは、すなわちその明証である。同書の言うところによれば、当時にエタとは餌取の語の転訛で、これすなわちインドにいわゆる旃陀羅に当る
というのだ。もちろんこの書は仏徒の手になったものとして、その著者が自己の奉ずる宗教上の立場から、屠殺を以て甚だしき悪事となし、したがって屠殺業者
を悪人と云い、盛んにこれを嫌忌したに無理はない。それが果して悪事であるか、また果して悪人であるかは今の問題ではないが、この書が鎌倉時代もおそらく
弘安頃のものとして、日蓮とほぼ時を同じゅうすることによって、日蓮が自ら繰り返して旃陀羅の子なりと言っているのは、これただちに自らエタすなわち屠者
の子なりと言っているのと、同様だと解すべき、動かすべからざる証拠たることは、明々白々だと謂わねばならぬ。薬学生の質問掲示板 定期試験・進級・CBT・薬剤師国家試験対策
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