先年、欧洲のある土地で数人の日本人が泊り合せ、それが同じホテルに滞在していろいろな国の男女と混つて雑談をしたことがあるが、その時、日本人の名前 の話が出て、たうとう、そこにゐたわれわれ同胞の名前をいちいちフランス語に訳してみせねばならぬ羽目に陥つた。日本人の名前にはそれぞれ意味があると教 へた手前、無理矢理に、例へば、「宮廷の仕立屋こと二番目の息子の戦士」といふ具合に、やつたのである。
先年、欧洲のある土地で数人の日本人が泊り合せ、それが同じホテルに滞在していろいろな国の男女と混つて雑談をしたことがあるが、その時、日本人の名前 の話が出て、たうとう、そこにゐたわれわれ同胞の名前をいちいちフランス語に訳してみせねばならぬ羽目に陥つた。日本人の名前にはそれぞれ意味があると教 へた手前、無理矢理に、例へば、「宮廷の仕立屋こと二番目の息子の戦士」といふ具合に、やつたのである。想ひ出しても冷汗ものだが、これは実は、「服部兵 次郎」なのである。幸ひこの仁は陸軍武官であつたから、「なるほど」といふことになつたが、私は一介の演劇修業者として、自分の名をあからさまに訳すこと はどんなに気まりのわるいことであつたか。 それはさうと、この傾向は、人の名前ばかりでなく、あらゆる場合の命名法にこれと似た傾向があり、例へば官製煙草のおよそ煙草なるものの性格と釣合はぬ 取りすました名前を、国民はどう思つてゐるだらう。煙草などといふものは、何処の国へ行つても、気軽でざつくばらんな、といふ風なねらひでおほかた名前が つけられてゐるものである。それでこそ、のんびりとくゆらす煙草の感じがするのである。こゝにもまた、「平衡」を失した、わかり易く云へば、ピントのはづ れたなにものかがあると云はねばならぬ。 そこへ行くと、昔の日本人は、いゝ感覚を具へてゐたやうである。商店の屋号も、近頃のそれとは段違ひに落ちついた、渋い、なにげない、従つてゆかしいも のであつた。もちろん時勢のためでもあるが、わが国の民主主義はこの感覚を踏みにじつてしまつたかの如くである。 浅草の美容室
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