「貴君! 今晩お閑暇ぢやなくつて。」


「貴君! 今晩お閑暇ぢやなくつて。」

 と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。

「閑暇と云ひますと。」

 信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。

「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」

「いゝえ! 別に。」

 信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。

「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜人を、晩餐旁帝劇へ案内してやらうと思つてゐましたの。それでボックスを買つて置きましたところ、向うが止むを得ない差支があると云つて、辞退しましたから妾一人でこれから参らうかと思つてゐるのでございますが、一人ボンヤリ見てゐるのも、何だか変でございませう。如何でございます、もし、およろしかつたら、付き合つて下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」

 夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。

 信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。

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